スタンバイ・スマイル:日本国紀
2019-11-20T15:49:32+09:00
palmarosaK
影山なお子 ブログ
Excite Blog
両親や祖父母たちの昭和史を見直す。
http://palmarosa.exblog.jp/27857710/
2019-11-09T23:20:00+09:00
2019-11-20T15:49:32+09:00
2019-11-09T23:20:18+09:00
palmarosaK
日本国紀
2019年11月4日(月/祝日)、≪栄養士のための輪読会≫「昭和史を見直す視点」というテーマで
開催しました。
(主催 パルマローザ 講師 大橋禄郎先生 時間 10時30分~17時30分 会場 横浜市技能文化会館)
パルマローザで輪読会を最初に開催したのは、2013年1月27日(日)「『食品成分表』をフル活用しよう」でした。(講師 大橋禄郎先生 時間 10時30分~17時30分 会場 かながわ労働プラザ)
1つの書籍を順番に音読して読み込むというスタイルがとても新鮮であり、
頭にも入りやすいため、参加者から
リクエストの多いセミナーの1つとなりました。 その結果、年に2~3回のペースで開催しています。食文化史、恋愛小説、詩、時事問題、新聞、写真、美術……などのバラエティも充分。
おかげで、分野外の書物を敬遠したり、読んでも理解できなかったりした内容がしっかりと頭に入ります。輪読は、脳に対する嚥下食かチューブのよう。 ときに、実際に美術館や古書店に出向いて各作品の鑑賞ポイントを
レクチャーしていただいたり、
ご本の選び方をお教えいただいたりすることも。
絵画や写真、その他の作品など、目に見えるものでも、鑑賞眼がないと脳には残らない。
「コトバは、映像を脳の壁に貼りつける鋲のようなもの」と、以前、大橋禄郎先生からうかがったことがあります。 2019年度の輪読会は、今年2月に開催して以来2度め。前回は、≪食文化の前後左右≫というテーマで大橋先生にご指導いただきました。
今回のテーマ、「昭和史を見直す視点」を開催するのはこんなきっかけからです。
大橋先生は小学3年生のときに終戦を迎えられたお話は、セミナーに参加したときや、文章教室にお伺いするときなどでもお聞きしたことはしばしばありました。
祖父や祖母から、戦争に関するお話をおぼろげながらも、子どものころから聞いてはいましたが、大橋先生のお話は、より具体的で、子どもの視点から見た戦争がとてもリアルで印象深かったことを覚えています。 人生初の英語で「ギブミーチョコレート!」と連呼してジープを追いかけたりした小学生時代。
あるとき、アメリカ兵からもらった風船をふくらませて、それを掲げて電車通りを駆け回っていたら、 お父様から「捨てなさい!!」と押し殺した声で叱られたとか。 中学生になってわかったのは、 その風船はコンドームだったとか。
かと思えば、アメリカ兵が走るジープから吐き捨てたチューインガムを拾って、そのまま口に。
毎日噛み続け、夜は水を張ったコップに入れて保存。翌日、またそのガムをくちゃくちゃ。1週間後には、さすがに苦くなって捨てた……という人生の初ガム体験。 3月の東京大空襲のときは、「本所緑町(現・墨田区)の被災地に、叔母一家を探そうと兄弟で現地に行き、途中でたくさんの焼死体や水死体を見た。
しかし、そのときは怖いとも気持ちが悪いとは思わなかった。むしろ、まつげまで焼かれた犬が、目をしっかりあけられず、ふらふら歩いているのが悲惨に思えた。 そんなお話を伺ったことがあります。こういう体験談をみなさんにしてほしいと、私からリクエストしましたが、「その程度の体験で人に集まっていただくわけにはいかない」とのことで、輪読会の形式を守って、以下の書物の一部をテキストにしてくださいました。 テキスト1.『日本国紀』 百田尚樹 著 (第11章) (幻冬舎 2018年11月) 2.『韓国よ、歴史の真実を学べ』 エドワード・ルトワック 談 (月刊 『Hanada』2019年12月号から) 3.『`へ‘の字の旅程』 大橋禄郎 筆 (月刊 『旅』1971年11月号) 文章教室、輪読会に参加するようになって、新聞や雑誌に書かれていることは、その新聞社、その雑誌社の「色」がつき、事実とは異なる視点で事実を描かれていることがあることを学び、それ以来、新聞の広告に出てくる健康に関するベストセラー本などは、「はたしてそうなのだろうか」「なぜ、そう言い切れるのだろう」などと、自問自答しながら読むようにしたり、大橋先生はもちろん、輪読会に参加する仲間たちの意見を聞いたりしてものごとをそのまま、飲み込まないように努めている1人です。 今回、大橋先生からご紹介いただくこととなったご本、雑誌から「学校では習ってこなかった真の歴史、事実」をライブで拝聴させていただく機会となりました。 ドイツの名宰相オットー・フォン・ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名セリフを残したそうです。
(百田氏の解説では、この名言の正確な訳は「愚かな者は自分の経験から学ぶと信じているばかりだ。私は最初から自分の過ちを避けるために、他人の経験から学ぶことを好む」だとか) 私自身、昭和の身近な歴史さえ、ほとんど知る(学ぶ)機会なくおとなになってしまった……ような焦燥感がいつもどこか、心の片隅にありました。
百田さんの著書『日本国紀』の一部を大橋先生にご紹介いただいたことで、「日本はすばらしい国!」なのだとうれしい気持ちになりました。 20代後半で初めて語学留学で1か月だけ海外で学んだとき、世界各地から学んでいる留学生たちはみんな自国を誇りに思っていることに、驚いたことがあります。(自国を誇りに思っていることをちゃんとコトバで第三者に魅力的に伝えられることに) だからこそ、そのときに、百田氏のご本を読んでいたら私の短く終わった海外生活はまた異なるものになったかもしれない……と思うのです。
もしかしたら、この本を読んだ後だったら海外への「行き先」までもが変わっていたかもしれませんが。
以下、『日本国紀』第11章の一部。・ドイツのユダヤ人迫害政策が日本にも影響を与えていたこと。当時、樋口季一郎少将は、ユダヤ人に食料、衣服、衣料品を支給したうえで、上海租界に移動できるように便宜を図った。「ヒグチルート」と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は5000人以上といわれている。(一説には2万人) ・上記の樋口少将は、昭和20年(1945年)、 ポツダム宣言受託後に、樺太や千年列島に 軍事進攻してきたソ連軍と戦っている。
このとき、91師団が占守島の戦いでソ連軍に 痛撃を与えたことから 戦後、ソ連は樋口を戦犯として起訴しようとするが、 世界ユダヤ人会議をはじめとするユダヤ人たちが 樋口の助命嘆願をおこない戦犯リストから外させた。 ・昭和15年(1940年)、リトアニアの日本軍領事館に 勤めていた杉原千畝は、ユダヤ人難民に日本へ入国するための ビザを発行して、約6000人のユダヤ人を救った。
私自身、上記の事例は映画鑑賞で初めてその名前を聞いた1人。学校で習う日本史で学んだ記憶はありませんでした。 アメリカが必死になって「日本から戦争を仕掛けさせる方法」を考えていたころ、日本は、アメリカとの戦争を何とか回避しようと、「戦って、勝てないことは政府も軍もわかっていた」というくだりには、新聞、メディアの煽りが続くことで、現実が現実ではなくなることを知りました。
その頃の新聞は、戦争を煽る記事や社説、兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていたという。
なかでも東京日日新聞(現在の毎日新聞)の「百人斬り」の記事は荒唐無稽、創作記事の1つ。 陸軍の2人の少尉が「どちらが先に敵を百人斬るかという競争をした」という事実誤認に満ちた根拠軽薄な内容だが、戦後、この記事が原因で2人の少尉は死刑判決を受け、銃殺刑になっている。
輪読会の最中、会場が静寂な雰囲気になり、なかには、涙をこらえている人を見かけたくだりは、「ポツダム宣言受諾」の昭和天皇の決意のシーンでした。
「日本政府が『ポツダム宣言』を受諾すれば天皇は戦犯として処刑される可能性もあったが、会議中、一切発言しなかった。時に、昭和天皇は44歳であった。(中略)一同が緊張して見守る中、天皇は言った。「自分は外務大臣の意見に賛成である」日本の敗戦が決まった瞬間であった。部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わった。 薄暗い15畳ほどの地下壕で、11人の男立ちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言った。
「本土決戦を行えば、
日本民族は滅びてしまうのではないか。 そうなれば、
どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。 自分の任務は祖先から受け継いだ
この日本を子孫に伝えることである。
今日となっては、
1人でも多くの日本人に生き残ってもらい、 その人たちが将来再び起き上がってもらう以外に、 この日本を子孫に伝える方法はないと思う。 そのためなら、
自分はどうなっても構わない」 (中略)「私の意見は変わらない。 私自身は如何になろうとも、
国民の生命を助けたいと思う」
参加者一同、必死に涙をこらえながら、輪読し合いました。
44歳の決断。日本という国を背負った重圧。私たちが知らない天皇陛下のご様子をここで拝読することができました。
次は、「韓国よ、歴史の真実を学べ」エドワード・ルトワック氏 著『Hanada』2019年2月号の記事。 氏は、「朝鮮半島全体が中国の支配下に置かれたら日本にとって大災厄になる」、「日本はこめかみに銃を突きつけられた状態に陥る」 「日韓関係というのは外交問題ではなく、 二国間交渉で解決できない。 これは韓国自身の問題なのだ」
「戦時中、ドイツに協力的だった国こそ、 本当に反ドイツ的な態度をとるようになる」
「韓国人にも同じことがあてはまる。 韓国の行動は一見すると不可解なところがある。 注意深く比較してみると、その本質は ドイツに対する欧州各国の態度と同じであるとわかる」
「米日からの離反と中国への従属を本当に止めたいなら 韓国人は歴史問題についてフランスがドイツに示したような 態度に変わらなければならない。 戦争が終わった数年後には、 『もう過去を忘れて未来に生きよう』と態度を改めたことだ」 「フランスでは戦時中、実に多くの一般人がドイツの軍需工場で 半強制的伊働かされていた。 (中略) ドイツがフランスに対して実際に行った行為は 日本の朝鮮半島での行いよりもはるかに過酷だった。 (中略) ドイツ人はフランス人を追放し、射殺し、 フランス国内から馬車3万両分の財宝を奪っている。 小麦から鉱物資源、美術品からトラックまで、 ありとあらゆる財産を略奪したのだ」
「しかも、ドイツはフランスで学校を建設するようなことはしなかった。 一方日本は、朝鮮半島のインフラを整備し、 京城帝国大学(現在のソウル大学の前身)や多くの学校をつくった」
戦争による、海外と日本との関係をルーマニア生まれのアメリカ国防省長官府に任用された外国人による中立な立場での分析が的確。
栄養士として目の前の仕事だけをこなしていたら見えてこなかったであろう日本と海外との関係。
新聞やマスメディアも「危機感」を持っていないと、情報を鵜呑みにしてしまっていたかもしれない、と考えると、背筋がぞっとする。
最後は、大橋先生ご自身の体験を小説にし、月刊『旅』に掲載された「‘‘へ‘‘の字の旅程」を輪読した。(1971年 11月号) 小学低学年で体験した2度の学童疎開を通じて、そこでの人々との関わり、縁故疎開だからといっても預けられた親戚が縁遠い家庭だったので、そこの子どもと、東京から来た2人の疎開っ子とは食卓も食事の内容も違っていた。それがロクロウ少年の「戦争」の体験。
8月15日の終戦の日は、玉音放送があった直後、1日2食だったはずの日なのにもう1食、じゃがいもとバターが出されたと。そこまで覚えているのが子どもらしい!
ロクロウ少年にとっての終戦はバターがついたじゃがいもの味がした、というのも、どの本にも述べられていない、大橋先生ならではの体験談。
子ども心に「アメリカには嫌な感情はなかった」という先生。それどころかアメリカは戦争に負けた国の子どもたちに、「ララ物資(粉ミルク)を供給してくれた」国。
「もし、アメリカではなく、ソ連や中国に支配されていたとしたら事態はもっと深刻になっていただろう」と先生。
3つのテキストをご用意いただいたことで「もっと読んでみたい」「もっと自分たちの国のことを知りたい」と思ったのは私だけではないはず。
栄養士として、食を通して人々の健康づくり、生きがいづくりをサポートする私たちが、日本の歴史をさらに深く知ることで、この国の未来が明るくなるのではないかと思った1日でした。
百田氏が指摘されている、「日本ほどすばらしい歴史を持っている国はありません。 神話とともに成立し、以来2000年近く 1つの国が続いた例は世界のどこにもありません。 これ自体が奇跡といえるほどです」
日本の良さを第三者に魅力的に紹介できないのは、自分自身が、日本のことをよく知らなかったから……だと気づいたことも今回の収穫でした。 大橋先生83歳がガイドしてくださる輪読会は、ご本人が語られる体験はもちろんですが史実として引用されるテキストがまたすばらしく、輪読会に参加していなければ一生、そうした事実を知らないまま、ある意味、能天気な人生を送っていたかもしれません。
いまさらながらですが『日本国紀』をじっくり読もうと思います。読書の秋、だからではなく、「毎日が読書」という生活習慣として。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/